おもむくままに

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暗黒女子論考――澄川小百合は何物だったのか

 

 2017年4月2日から全国の劇場で上映している『暗黒女子』。

 「衝撃のラスト24分」「イヤミスの新たな傑作」という謳い文句から、とにかく注目を集めたいという商法を感じてしまい、敬遠していたが、友人の勧めと、たまたまレディースデイに時間ができたため、鑑賞することに。

 

 上映が終わった後、私は上記のような印象を持ったことを製作者の方に申し訳なく思った。物語は醜い女の本性を詳らかにするような”ただ不快感の詰まった作品”ではなく、むしろ耽美的で、執念や憎しみが一種の完成された美として提示された作品だった。先入観で物事を判断するのは良くないと、改めて反省した。

 

 さて、タイトルからこのページを開いてくれた方は多かれ少なかれこの『暗黒女子』が気になっているのだろうが、以下はネタバレを多分に含む「論考」になるため、本作を見ていない人はどうか読まないでほしい。先述の通り、先入観など持っても良いことは無いからだ。上記の感想だけで見たいと思った人は見て、あなたの視点で見た感想を是非教えてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本作を考える上で、物語の初めから順を追っていくのはナンセンスというものだろう。私はタイトルの通り、清水富美加演じる澄川小百合に着目して物語を考えていきたい。

 彼女は、朗読される小説のどの場面においても、殆どと言っていいほど登場しない人物であった。それは、彼女が物語の中に存在しながら、語り部の視点を得ていたからである。彼女は聖母マリア高等学院文学サークルという箱の中に居ながら、物語を創る作者だった。それでは彼女はこの物語の中で、登場”人物”だったのか? あまりにも彼女は全能すぎないか? というのが私の疑問だ。

 澄川小百合が唯一固執していた、白石いつみについて考える。ラストシーンで、澄川小百合が髪を切っているのは、彼女の中では今もなお主人公に最もふさわしい人物が白石いつみであるからだろう。尤も、それは学院の太陽として燦然と輝いていた頃の白石いつみであって、学院内では死に、遠く離れた土地で貧しいながらも小さな幸せを嬉しそうに語る白石いつみではない。

 制服は、学校という閉塞的な箱庭を象徴する。それを脱いで、上品なワンピースに身を包んだ白石いつみは大人びて見えたが、女子高生ならではの繊細な美は、これから先どんどん失われてゆくのだなと予感させられた。

 澄川小百合は主人公としてふさわしい姿の白石いつみを愛した。けれども、その条件を満たさなくなったからといって、彼女を殺す必要は無いのではないのか? 白石いつみは死んだことになっている。彼女にはそのまま遠く離れた地で幸せになってもらい、自分は手を汚さずに主人公の座を奪えばよかったのではないか。

 彼女は完成された美しさを失い、凡庸な脇役になり下がるいつみを見ることが、作者として耐えられなかったからだ。いくら小百合が物語を紡ごうと、小百合にとっていつみは傀儡ではなく、同じ生きた人間だ。いつみの人生における選択肢に関する、最終決定権を持っているのは、いつみ自身である。それが許せなかった。この、小百合のいつみに対する感情はさまざまな捉え方があるだろう。私に言えることは、これから先も、澄川小百合にとっての主人公像が白石いつみ以外の誰かになることは、きっと無いということくらいだ。

 

 余談だが、ストーリー全体を通して感じた点として、もう一つ、男の醜悪さを描いていることを挙げる。この女の園で描かれる物語に出て来る男は「社会に出ている」「成人済みの」「性に囚われている」という共通項があると考える。

 まず、北條先生。言うまでもなくいつみとの関係がある。教師なんだからせめて中田氏くらい自重しろよ……と思わずにはいられない。現実の男性はそれほど理性の無い生き物ではないと思うのだが(個体差はあれど)、ここではやや大袈裟に描かれているだろう。

 次に、二谷美怜がボランティアと称してお金を貰っていた老人の男性。これも言うまでもない。が、こちらは実際にありそうでぞっとしない。

 最後に、学院の経営者であるいつみの父だが、いつみの妊娠を知り「恥知らず」と罵ったことが挙げられる。彼の一連の言動から、性に対して過剰な反応を示す点を「性に囚われている」と言えるだろう。

 

 脇役たちについて考えたいのだが、時間の都合上、これは次回に論じたい。

 彼女たちは本当に交際を告発した犯人なのか、彼女たちの物語はどこまでが現実で、どこまでが虚構なのかについて。時間の許す限り、お付き合い願いたい。

 

 

2017.04.05