生きるということ
人生とは選択の連続である。「選ばない」こともまた然り。
久しぶりにブログを書きます。
最近思っていることをつらつらと。
平成最後の夏だというのに末法思想も裸足で逃げ出すほど日本終わってるというか、終わりすぎて逆に始まってる感。
悲しいのやら腹立たしいのやらわからないニュースだらけで嫌になるが、こんな世の中だから、生きるということについて考えてしまう。
私は、生きている。
けど、生きている=生きるという選択肢を望んでいる
ではないと思う。
私は、生きたくて生きているわけではない。
「死」は無である。瞬間で人を無にする。
蓋しその瞬間にあるエネルギーは計り知れない。
何が言いたいかというと、
「生きる」ことは毎日一定のコストを払い続けることであって、
「死ぬ」ことはその瞬間に最大コストを払うこと(ただし成功率はわからない)
なんだと思う。
そして私は確率のわからないものにコストを払って
もし失敗した場合に払わなければならない沢山の犠牲を被りたくないし、
また「生きる」というコストをギリギリで毎日払っている人間に
「死ぬ」ということにかかるコストが払えるはずもないのだ。
選択の話をしよう。
私は毎日電車のホームで「今飛び降りたら死ねる」
と思う。
別にそこまで自殺願望が高い訳でもないし、人生そこそこ楽しいし、仕事も今のところは並大抵に上手くいっている。
でも生き「続け」たくない。
死に際は自分で選びたいし、充分とは言えずともそれなりに満足した自分のまま死にたい。
だから、人生のいくつもある分岐点の中から、DEAD ENDを選んだ自分を想像する。
こういう人は今の日本にそれなりに存在するのではないかと思う。
幸いなことに私はオタクなので推しを見届けるまでは生への執着がある。
でもそれは「生きたい」のではなく「死ねない」なのだ。
何故そうなってしまったのか、原因をあれこれ考えてみたけれど
絶対的な愛が存在しないからじゃないかなぁ。
「この人なら私が私である以上、何があっても味方でいてくれる」
そんな風に思える人がいない。
親の愛はそうあるべきだと私は思う。
追伸
どうしてこんなことを考えだしたのかというと、上司に恋愛遍歴について聞かれまくった挙句「人生やりたいことやっとかないと後悔するよ」的なことを言われ、
「コイツ恋愛しない人生が私にとって『やりたいことやってない人生』だと思っとんのかハァ~~~~~~~~ン自分の価値観押し付けんなやクソが~~~~」
と思い、悔いなき選択をする人生とは? と思い至ったからです。